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幻の楽器「オークラウロ」について

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今回は、公益社団法人日本三曲協会の会報にオークラウロについての寄稿の機会がありましたので、会報に寄稿した文章を出典させていただきます。

 私の父 初代 岸 星童は、尺八を初代川瀬順輔、三世荒木古童に師事していました。昭和十年オークラウロ事務所開設と同時に入社し、オークラウロ協会で練習生として、その後、幹事師範となり岸 星聴という名もいただきオークラウロの教授を開始し後進の指導に携わっていました。

 昭和十六年、私は東京で生まれました。まだ記憶のない頃、戦火をまぬがれるために祖父の郷里をたどって岐阜県の長良川のほとりに疎開いたしました。私が覚えているのは、そこで父が両手で拍子を取りながら尺八の稽古をつけている姿でした。子どもながらに、かすかな記憶がございます。

 私の家には、オークラウロに関する資料がたくさん残されていました。しかし、父のオークラウロは、岐阜に疎開してからどなたかに貸し出したそうでした。その後、終戦の混乱でその貸した方のお名前もわからず、とうとう返ってきませんでした。その父も、昭和二十三年、私が六歳の時に他界いたしました。

 その後、母の実家を頼り群馬県に移りました。高校から吹奏楽に傾倒した私は、フルートを習い始めました。その頃、母から「父がオークラウロを吹いていた」と聞かされました。群馬大学学芸学部音楽科に入った私は、フルートを専門的に学ぼうと、毎月東京へレッスンに通いました。父の影響でしょうか、東京でのフルートのレッスンの後に、神田や銀座の楽器店で自然と「オークラウロ」を探し歩いておりました。しかしながら、手掛かりはつかめませんでした。

 私が教職を退職した平成十二年(二〇〇〇)、その頃インターネットの普及とともに、情報を得るのに便利な時代となりました。今から十年ほど前、テレビのニュースでオークラウロの演奏と再製作の話が目に飛び込んできました。それをきっかけに、あきらめていたオークラウロへの思いが目覚めたのです。その後、大倉集古館を訪ね、父とオークラウロへのかかわりを聞き、現存のオークラウロを見せていただいたり吹かせていただいたりしました。

 大倉喜七郎五十年忌に再生プロジェクトが発足し、現代によみがえった新しいオークラウロの第一号を平成二十六年(二〇一四)九月十四日に購入することができました。

 今では、五世荒木古童の直門として、二世岸 星童の免許を授かり尺八の演奏活動を続ける傍ら、現代に再製作されたオークラウロを加え演奏活動の幅も増しています。地元群馬県高崎市で、私主催の梨園コンサートも十二年目三十三回を迎え、遠くからオークラウロの音色を聞きに来る人たちが、思いのほか大勢いらっしゃいます。

公益社団法人日本三曲協会 会報 (令和4年5月15日発行)より出典

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